Jan 25, 2009
引越しをして知ることが
引越しをしてわかるのは、引越し費用はどれくらいかかるかということや、どの段階で引越しをするのかということだと思う。私たちは失敗を学ぶことは多いので、挑戦するのはいいのではないかと思う。若い頃の失敗は、将来の有用なので、怖がらずに果敢に挑戦したいですが。リフォームは、修理という意味が強く、リノベーションは全面改造という感じでしょうか?キッチン、バスルーム、トイレなどを新しくしたり、部屋を増やすなどの増築したりすることはリフォーム。一方、リノベーションは、ライフスタイルの再考し、より生活の根源的なものとして変えていくのです。構造骨組の体はそのままに完全に新しい住宅建設変えてしまう、という感じです。
津波で拝殿や鳥居などが流された陸前高田市気仙町の今泉天満宮で、樹齢800年を超す杉(直径2・7メートル、高さ約30メートル)が1本だけ折れずに残った。荒木真幸(まさき)宮司は「まちの復興のシンボルにしたい」と期待を込めている。
地元では「天神の大杉」の名で親しまれてきた。幕末の剣豪・千葉周作の生誕地が近くにあり、幼少時にはこの杉の下で遊んだと伝えられる。
津波に襲われた後、荒木宮司が知人を通じて庭師に杉を診断してもらったところ、「大丈夫、この木は生きる」と言われたという。復興を願い「甦(よみがえ)る千年 天神の大杉と我らが今泉」と記した幕を取り付けた。【岡大介】
5月26日朝刊
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◇山田の山崎さん、仲間たちと
津波でほぼ壊滅した山田町で、居酒屋「味処いっぷく」を営んでいた山崎純さん(37)が仲間たちと仮設店舗での再開を目指している。酒とさかなで住民がいっときでも憩える場所を作りたい−−。がれきの山と焦げたにおいが漂う町に「開店」に向けたつち音が響いている。
がれきばかりの灰色の土地に柱が立った。23日、居酒屋の仮設店舗の建築が始まった。
山崎さんが親から継いだ店は、夕暮れになると酒と海の幸を楽しむ客がやってきた。JR山田線陸中山田駅近くにあった約10軒の縄のれんの一つ。そのすべてが津波で消えた。
震災が起きた時、山崎さんは約300メートル離れた自宅にいた。両親を伴い高台の小学校に逃げた。眼下の町はあちこちで火の手が上がり、またたく間に広がっていた。津波と炎にのまれる町を目の当たりにし、なすすべもなかった。
無力感に陥っていた時、がれきを片づけ始めた友人の姿を見て、思い立った。「自分にできるのは店だけだ」。知り合いに相談すると、以前の店の近くに土地を貸してくれた。建築は仲間の建設会社の社長(34)が安く請け負ってくれた。町立山田中学校の後輩だが、両親と妻を亡くし、子ども1人は行方不明。30代の男性社員3人も後輩ばかりで、1人は父親を失い、残る2人も家が流された。
仮設店舗は座敷とテーブルをしつらえ、30人ほど入れるようにする予定だ。「いずれ復興が始まれば撤去される仮設の店だが、それでもお客さんを迎えたい」。弁当の予約も入り始めた。「肉が食べたい」「夜遅くまで開けといてくれよ」。建築作業を手伝う山崎さんに、通りかかった住民たちから声がかかった。【杉埜水脈】
5月26日朝刊
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◇「趣あった」
戦前からの遊郭の面影をとどめていた宮古市鍬ケ崎上町の旧「更科楼」の建物が大震災の津波で全壊した。街から消えたかつての花街のシンボル。住民らは「庶民の哀感がにじみ、趣があった」と寂しさを隠せないでいる。
木造2階建てで、震災時、所有者の夫婦が住んでいた。津波は宮古魚市場のある岸壁から150メートルも離れていない建物をのみ込み、1階部分が押しつぶされて倒壊した。今は解体・撤去され、跡形もない。
更科楼がいつから始まったかは不明だが、銅製錬所のラサ工業が田老から鉱石を運ぶ鉄索の運転を近くで始めた1936年ごろに建て直された。小屋根の付いた入り口や、2階の部屋に通じる大きな階段、わずかに残る白壁と格子窓が昭和初期の雰囲気を伝えていた。53年に売春防止法が施行されてからは、間貸しや旅の行商人らの定宿に利用されていたという。
近所の年配の男性は「文化財的な木造建築で、風情がありました。老朽化していたのでさらわれ、倒れてしまった。宮古を訪れる観光客も珍しげに見入っていたものです。惜しい建物でした」と跡地を見つめた。
漁師町の鍬ケ崎は江戸時代の初めから遊郭で栄えた。「江戸で吉原、南部で宮古、宮古まさりの鍬ケ崎」ともいわれ、江戸時代末期の安政年間には160人の遊女がいたという。三陸汽船が明治末期に塩釜(宮城県)と宮古間に就航すると、鍬ケ崎は三陸の海の玄関口として発展し、芸者衆も行き交う花街としてにぎわった。【鬼山親芳】
5月26日朝刊
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